普通に生活していれば、他人に刃物を突きつけられる経験をされた方は少ないと思います。(当然ですが・・・)
私は包丁を片手にした人間に、本気で向かわれたことがあります。
警察官のころ居酒屋の通報で客同士が喧嘩になり、刃物で相手を脅している。
そういう事案でした。
私が駆けつけたとき、言い争いの最中で仲裁に入った私に刃物を向けてきました。
けんかの相手から、その喧嘩を止めに入った厄介者として、危害を加える対象が私になりました。
正直、恐怖に身がすくみました。
警防や拳銃を持っていますが、やむをえない場合にしか使えません。
発砲するには、それ相応の段階を踏まなければ逆に警察官が罪に問われることがあります。
酔っ払った人間は手がつけられないことがあります。
相手の形相、脅しで刃物を持っているのではない、それはその場の雰囲気や五感を通して理解できました。
このとき、殺されるのでは?という考えが脳裏をよぎりました。
決して酔っ払いのたわごととせず、真剣に相手とむきあって、
興奮をおさめ刃物をしまわせました。
あとから考えても、何を言ったのかはまったく覚えていませんでした。
それほど真剣に話をしたのだと思います。
たぶん、こ無意識に様々な情報を判断して、落ち着かせるようなことばをなげかけていたのでしょう。
喧嘩相手のとのいざこざを、理解できないなりに気持ちを汲んでわかってもらったのでしょう。
本気で殺される・・・
と思ったとき、頭の中ではわずか一瞬の間に今までの人生が回顧されました。
もっとこうしていれば、ああしていれば、くいばかりが頭をよぎりました。
これらは、恐怖という情動から脳が垣間見させた現象です。
脳がすべての防衛反応として無意識に働きかけたのでしょう。
恐怖という原始的な情動が発令されたとき、あらゆる過去の情報を統合し、
若かりし私の身を守ったのだと思います。
情動が大きく揺れるほど、人間は成長すると思います。
恐怖ではなくとも、喜怒哀楽という情動でも同じです。
私たちは、喜怒哀楽を最高の状態に高めることで、
私が一瞬にしてその状況を把握し、刃物を持っている人間をなだめたという事案が物語っています。
人間は情動が最大限に高まったとき、一瞬のうちにこれまでの慣れ親しんだ環境を打破できるのだと思います。
誰もが過去を振り返って、一番思い出として記憶に残っているのは、
喜怒哀楽にかかわることだと思います。
喜怒哀楽のうち、「怒」の情動は人や自分に対することではなく、
戦争が許せない!とか、今の社会制度を変えたい!という、
現状を変えたいというための「怒」であればいいと思います。
整体師の皆さんも自己を見つめ、情動を最大限に活用するとともに、
患者さんにも、あらゆる取り組みから一瞬にして健康という概念を変えることができるように精進していただきたいと思います。
これは私自身へもいえることですが・・・
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